こんにちは。無職から派遣看護助手に転職した、ままるです。
はてなダイアリーに投稿された
「教育困難校に勤務してるけど、もう無理」
という題名のエントリーが話題を集めています。
ブチ切れ女性教員の本音炸裂 教育困難校「勤務」ブログがすごい (J-CASTニュース) – Yahoo!ニュース
「教育困難校」とカテゴライズされる高校の教員が、教員の職自体に悲鳴を上げている内容です。
この方のエントリーを見て「教育」とは何か?
を改めて考えさせられました。
今日はそんなお話です。
教育困難校とは
教育困難校(きょういくこんなんこう)とは、一般的には生徒の授業態度や学力などが原因で教育が困難な学校のことである。進学校であるか、または偏差値の高低は関係なく、いじめ、校内暴力、学級崩壊、長期欠席、少年犯罪などの難しい課題が集中しているために課題集中校(かだいしゅうちゅうこう)と呼ばれることもある。
「教育」が「困難」な状況であるわけだから、そこで働く教員の方々はそれは大変でしょうね。
僕らの世代では無かった「教育困難校」という言葉は、いったいなぜ生まれてきたのでしょうか?
教育困難校が生まれた理由
様々な視点があると思うけれど、1番大きいのは「社会の変化」ではないかと僕は思います。
「モンスターペアレント」と呼ばれて久しい生徒の親達の目、教育委員会を含む職場の上司達の目、この2つが僕らの時代とは大きく違うのでしょう。
僕らの時代「先生」とは脅威でいて当たり前の存在でした。
僕はあまり出来の良い生徒ではなかったので、中学校の時なんてしょっちゅう先生に殴られたものです。
昔の学園ドラマであった「往復ビンタ」を何度も受けた思い出があります。
今の時代では、そんなことをしたら即新聞沙汰ですからね。
社会がいつの間にか、そんな風潮に変化してしまった。
それが「教育困難校」を生み、そこで働く教師達の心を病ませているひとつの原因になっていると思います。
脅威の無い所に統制は取れるのか?
人間とは複雑でいて単純な生き物です。
人間が集団で生活する上で、個々が思い思いの行動をすれば、そこには秩序や統制はもちろん取れません。
人間の統制を一番簡単に取る方法が「脅威」です。
よく考えてみると、これは何も「学校」や「子供」だけの話ではありません。
会社に勤めるサラリーマンも、実は「脅威」で統制されているからこそ、一定の秩序が保たれているのです。
毎日外回りの飛び込み営業で、浄水器を売っている営業職のひとがいるとしましょう。
彼には月のノルマが課せられています。
一日1台も打って来なければ、会社にいる鬼課長に怒鳴られます。
さらに一月間不振が続けば、会社をクビになる恐れもあります。
そういった「脅威」があるからこそ、いやいやながら自分で売れそうも無いと思っている浄水器を足が棒になるまで売歩くわけです。
もし、会社に「脅威」が存在しなかったら、浄水器を売る営業マンは機能すると思いますか?
ほとんどの営業マンが、日中パチンコ屋かマンガ喫茶で時間をつぶすことになるはずです。
つまり、今の学校には先生による「脅威」での統率が取れない状況になっています。
これでは生徒はやりたい放題で当たり前ですね。
そうしてしまった社会を恨むほか無いのでしょうか。
武井先生との出会い
それでは、腕力等の「脅威」が無ければ、先生は何も出来ないものなのでしょうか?
僕は幸いながら、人生の中で「良い先生」に巡り会ったことがあります。
当時代々木ゼミナールで地理の講師をしていた、武井正明先生です。
武井先生は日本の地理の権威のひとりで、当時は日本で販売する地球儀の監修をすべて行っていたほどの人物です。
僕は正直言いうと、武井先生に出会うまで「教師」という立場の人間があまり好きではありませんでした。
しかし、代々木ゼミナールで武井先生の講義を聴いた瞬間に、目からウロコがバリバリと剥がれた記憶があります。
武井先生は当時、日本人が入国可能な国のほとんどを自分の足で歩いていました。
長期の休みには必ず海外に出向き、その国の風土や人々に触れるような人生を歩んで来た人です。
なので、武井先生の地理の授業は単純に教科書に書いてある事を伝えるものではありません。
武井先生は実際に自分の目で見て触れてきた、その国の空気や土の感触、食べ物の味などの話をします。
武井先生の講義を聴いていると、まるで自分が世界旅行に行っているかのような情景が浮かんだ物です。
予備校というのは「点数を取って受験に合格する」ことを目的にします。
しかし武井先生の講義には、点数を取るテクニックなどひとつもありません。
でも、武井先生の講義を受けた生徒は、地理というジャンルに恐ろしいほど興味を持つことになるのです。
良い教師とは何か?
武井先生は、代々木ゼミナールに来る前まで「都立新宿高校」の一教師でした。
彼は「教師」という仕事に自分の生涯を掛けたひとでもありました。
武井先生は、ある講義の中で
「僕はタバコを吸いません。酒も飲みません。車の免許もありません。」
という話をしました。
「車を運転すると、誰かを事故に遭わせる可能性があります。僕にはそれはあってはならないことなのです。」
「なぜなら僕は教師だからです。」
僕は胸を張ってそう言った武井先生の姿を、一生忘れる事はありません。
日本では遠い昔、教師のことを
「先生様」
と呼びました。
ひとにモノを教える教師とは「聖職者」で無ければなりません。
武井先生の志は「圧倒的」でした。
その凛としたオーラは、誰にも否定出来ない圧倒的なものでした。
暴力や力で「脅威」を見せつけるだけが人間を統率する方法でないことを、武井先生は自らを持って証明していたように思います。
「良い教師」とはいったい何でしょうか?
広く正しい知識?
品位溢れる生活態度?
僕が思う「良い教師」とは
「記憶に残る教師」
だと思います。
現に武井先生の教えは、20年以上経った今でも僕の記憶の中に彩鮮やかに残っています。
世の全ての教職に就いているひとに、武井先生のようになりなさいと言っている訳ではありません。
人にはひとの魅力や強みがあるはずです。
その強みが「圧倒的」であれば、子供も大人も反抗どころか何も言えなくなるはずです。
自分らしさを「生徒達の記憶に残す」ような教師が増えていかなければ「教育困難校」の問題を解決するのは難しいと僕は思っています。
まとめ
とは言え、実際の現場は非常に大変なんだと思います。
これは学校だけでなく、介護福祉・医療の現場でも起こっています。
患者や介護サービスの利用者、そしてその家族。
社会の目も厳しくなり続けている現状で、医療や介護福祉関係者も疲弊しています。
そんな中で、状況を一変出来る魔法の杖はありません。
やはり個々のマインドを、今一度奮い立たせるしか方法は無いように思います。
「教育困難校に勤務してるけど、もう無理」のエントリーを書いた方の文章からは、本当にリアルな憔悴感を感じます。
そしてそれに賛同する、多くの同業者たちのコメントも日本の教育現場の現状を現しています。
教育も介護も「ひと対ひと」の仕事です。
「ひと対ひと」の仕事に問われるのは、その仕事に従事するひとの「人間力」です。
自分も含めて「人間力」を高めるしか、この問題を解決する道筋はありません。
現在教職に就いている多くの方も、厳しい現状に負けず頑張って欲しいと思います。
介護士ベイベー